2010年 8月 29日
大井川について1
龍ちゃんのカッパ館のある場所は、黒石川のほとりにあります。実はこの黒石川はある一時期主流の大井川そのものだったそうです。というか、袋井から焼津まで区間の多くの川が元は大井川だったとも言えます。大井川は西の外れは原谷川を通って太田川と合流して袋井に注ぎ込む流れが主流だった時期がありますし、東の外れは、黒石川を通って、小川港に注ぎ込む流れが主流だった時期もあります。大井川は袋井から焼津に至るきわめて広い範囲の低地を流れ、多くの平野(デルタ地帯)を作り上げた川なのです。当然、この間にある菊川が主流だった時期もありますし、牧の原を流れていた時期もあります。勝間田川も、湯日川も、栃山川も、古くは主流だった時期を持っているようです。日本一高い山脈日本アルプスから、短い距離をなだれ込む水の流れですので、日本一すさまじいエネルギーを持っているのです。
ただ人類が日本列島に住み始めてからと考えると、現在の大井川の位置より東側、志太平野を主たる流れとしていたようです。縄文時代の前期、海面が高かった頃は現在の島田駅付近まで海だった時期もあるようで、高草山付近を除けば、志太地区のほとんどは海面や大きな湿地帯だったようです。ただ、大井川と瀬戸川の二つの大河によって土砂が運ばれ、少しづつ陸地を造って行ったようです。
縄文時代の中期から後期になると、海面は後退し、大きなデルタ地帯といくつかの微高地が出来上がります。焼津微高地、小川微高地、静浜微高地などに縄文の晩期に人が入り込み生活を始めたようです。(近年この時期を弥生前期と考えるべきだという意見も有ります。稲作が始まったと考えられるのが500年ほど遡ったからです。)この時期の大井川はどこを流れていたかよく分かっていません。細く網の目のように志太平野全体を流れていたと予測されています。
弥生時代から、現代にかけて、大井川の流れは大きく見て2つあったようです。一つは現在の位置のA流路と、栃山川と黒石川の範囲のB流路の二つです。弥生時代前期はA流路、現在と同じ位置が主たる流れであったようです。その後弥生時代の中期ごろに黒石川と栃山川の間のB流路が主流となるように川筋が変化し、現在の小川港付近から駿河湾に注ぎ込みます。これは藤枝にある遺跡や小川の微高地の遺跡に、それをしめす跡が残っています。またこの時期にも現在の大井川位置の川筋も全く水が無くなった訳ではなく少量流れていたようです。黒石川付近を流れていた大井川は、土砂を運びながら水量を少なくさせ、現在の栃山川付近まで移動していったようです。ただし、あばれ川と呼ばれ川筋が変化しやすかったことを考えると、黒石川と栃山川の間を色々変化しながら流れていたのかもしれませんね。
どちらにせよ、川によって運ばれた土砂によってB流路付近は隆起し、徐々に水流が少なくなっていき、現在の大井川の位置の水量が増えて行ったのでしょう。
参考文献 「島田宿と大井川」 「大井川町史」 「大富村史」 など