2010年 9月 19日

大井古川(おおいこがわ)の産業

 前回と前々回で語った、黒石川と栃山川の間の地域は、大井川の氾濫域や古川筋、さらに海進期には藤枝市の青島付近まで繋がって湾のように成っていた場所であり、この範囲を『大井古川(おおいこがわ)』と今後このページでは呼びます。名称の理由は、第一に大井川の古川筋であったこと。この範囲の東の端が小川(こがわと読むおがわではない)地区であり、古川をふるかわと読まずこがわと読んで、小川地区と大井川との深いつながりを想起させようという意図もあります。
 それでは大井古川筋の現在の産業がどうなっているかを見てみたいと思います。
 大井古川筋の1番目の産業は何といっても水田でしょう。石ころだらけの土地で、水は豊富にある訳です。一番適している農作物はやはり米に成るのです。江戸時代の治水技術によって大規模に水田化が進み、そのことによって湿地帯から人が活用しやすい平地と成って、大きく発展した地域なのです。平地ををさらに開発して様々な産業が成り立ってきた場所で、水田とその為の治水技術が重要な基礎に成っている地域だと言えます。そして現在もまだ、水田が一番大きな面積を占めている場所でもあるからです。
 次に上げることが出来るのが、木材業です。この地区の産業としては最も古い産業では無いかと私は考えます。現在あまり元気が無いのですが、歴史的にこの地区の重要産業だと思います。そして、今後ぜひ復活して欲しいし、又その可能性は十分有ると思います。(この問題は別に検討する予定です。)
 そして何といっても一番元気な産業、水産業、水産加工業です。近年観光地としてみると清水に押されている傾向がありますが、水産加工業としての実力は決して負けてはいないでしょう。調味料の焼津水産化学、鰹節の柳屋本店東洋水産エスエスケイフーズなどの食品工場が大井古川筋の海岸部には小さな工場を含めて多数並んでいます。志太平野の沿岸部は水産業や水産加工業が極めて強力ですが、大井古川筋の沿岸部は中でも重要な工場が多数有ると思います。
 あまり話題に上らないのですが、大井古川筋には製薬会社工場が5社も並んでいる場所でもあります。アステラス科研持田中外ツムラと日本有数の製薬会社の工場が立ち並んでいます。ただ志太平野は歴史的に製薬が盛んだった訳では無いのです。まだ色々と調べている途中ですが、藤枝の飽波神社の御祭神が薬の神様である少彦名命という程度で、製薬産業と志太平野の歴史的関係性があまり出てきません。おそらく新しい形で定着したものでしょう。大井古川筋は地下水が極めて豊富ですし、東京にも大阪にもアクセスが良いので、製薬会社にとっては良い立地なのでしょう。また、歴史が浅いこともあって、まとまった土地の買収がしやすかったのかもしれません。龍チャンのカッパ館は北野製作所が運営しているのですが、北野製作所の本業は空調配管工事の会社です。私たちの会社の最大の技術的な売りは製薬会社のクリーンルームの仕事なのです。でもこれだけ、製薬産業は盛んなのですから、この地域に薬の啓蒙をするような観光施設があるといいですね。
 またプラスチック加工業もこの地域の主要産業でしょう。住友ベークライトの工場、車のバックミラーの村上開明堂などを筆頭に小さなプラスチックの金型会社も多数あります。小さな会社は自動車産業や玩具産業の下請けが多いようです。現在東静岡駅の実物大ガンダムが話題になっていますが、静岡県の中部は伝統的に玩具産業を得意にしています。それはこの場所でも同じです。かつて雛人形の藁胴作りは大井古川筋の農民の内職として盛隆を極めていたこともあります。ちなみに志太地区では男の子も雛人形が貰えます。古い農家の家などは、雛祭りにおじいちゃんの雛人形からおばあちゃん、おかあさん、おとうさん、まごまで家族全員の雛人形を飾る家もあるのです。
 造船業も古くかつ、強力な産業です。赤坂鉄鋼の工場が大井古川筋にあります。赤坂鉄鋼は世界的な巨大船のエンジンを製造する会社で、一般の知名度は決して高くないのですが、2ストロークの巨大ディーゼルエンジン製造工場として世界的に重要な存在です。もともとは焼津港に近い中港で漁船用エンジンの修理から始まったようです。 また、赤坂鉄鋼のすぐ隣にある近藤和船研究所も焼津地区の海洋技術の独自の発展に重要な意味を持った場所です。(焼津の和船技術はもう一度取り上げる予定です。)
 大井古川筋の産業は豊富な地下水と広い平野を活用した大きめの工場を中心に成り立っていると見ることが出来ると思います。水産加工も魚も重要ですが、大井川からの豊富な淡水が無ければ成り立たないでしょう。実際、この地域の神社は大井神社や大井八幡神社など大井川と関連の深さを象徴するモノが多いのです。焼津は魚の町と見られていますが、志太平野や井川地区まで含めた縦(大井川)の関係もとても重要な意味を持っており、このことを観光に役立てていくことも、必要だと思います。

2010年 9月 06日

大井川について2

 人が住み始めた後の大井川はどの時期までどこを流れていたのか、時期については結構不明で、異説が結構あります。
資料があったので載せてみます。これは国土交通省の資料です。


※gifイメージはサムネイル化できません大井川の流路

 ?流路のあとに残っているのが現在の黒石川です。?流路のあとに残っているのは現在の栃山川です。?流路は現在の大井川です。
 この資料だと大宝律令の時代には現在の位置に成ったと書いてあります。しかし、大井川は駿河国と遠州国の境の川だと考えられていました。?流路(栃山川)と?流路(大井川)の間の藤守は長い期間、大井川の西側をしめす遠州国だと分類されていました。この点から考えると、大宝律令の時には?流路(栃山川)が大井川と考えられたとするのが自然だと思います。
 また、律令時代の東海道は江戸時代の東海道より、海岸部を通っていて、焼津市の小川に宿がありました。(小川の名前の元になった川がおそらく現在の黒石川でしょう。)「しだのうらを あさこぐふねは よしなしに こぐらめかもよ よしこさるらめ」という歌が平安期の万葉集にあります。これは島田市初倉あたりから大井川の下流を小川宿まで船で渡った時作られたのではないかという説があります。(異説もあります。)
 いわば、大宝律令前から平安期までの間くらいまで栃山川が主たる大井川だったとする様々な説があるのです。季節や台風などによって雨量の差が激しく変化する上に、自然に任せて流れていたことを考えると、律令時代には実際どこに何時大量に水が流れてくるかはっきりとは分からないという状態だったのでしょう。さらに平安の海進期には藤枝の青島あたりまで、湾のように成っていたこともこともあるようで海との境目もだいぶあいまいだったのです。この為、黒石川と栃山川の間の地区は開発が遅れます。これに対して栃山川と大井川の間の藤守地区はとても安定していたようで歴史が極めて古く、弥生時代の土器も出土し、平安時代より遡って考えられる芸能も残っています。(藤守の田遊び 国指定重要無形民俗文化財)
 龍ちゃんの河童館は黒石川沿いの東側(焼津港より)の大住で、周辺に比べて比較的早く開発されたようで、歴史は鎌倉時代あたりまでさかのぼることが出来るようです。ところが、黒石川を隔ててすぐ反対側(栃山川側)は三右衛門新田に成るのですが、ここの地区の開発は江戸時代の中期から後期とぐっと新しくなります。いわば、黒石川と栃山川の間の地域は基本的に江戸時代の中期から後期に開発されるみたいです。例外は例えば禰宜島地区で、ここは室町後期にある程度開発されていたみたいです。禰宜島というように最後に島という名前が付く地名が志太平野には結構あるのですが、これはおそらく、平安時代の海進期に島のように成っていた微高地だったので比較的安定していたのでしょう。なお本中根も古く室町前期あたりまで歴史がさかのぼることが出来るようです。
 どちらにしても、川の跡地ですので、このあたりを開発した農民は大変な苦労をしたようです。石ころだらけで水はけが良すぎて「ザル田」と呼ばれていましたし、木も多数生える訳では無かったので、燃料として使う材木の調達もほとんど購入するしかなかったみたいです。粘土もありませんでした。まさしく水と石しか無い地域だったのです。江戸時代に入っても慶長年間と寛永年間にカッパ館付近も大洪水が起こっていますし、恐怖とも隣り合わせだったでしょう。この為、古い農家の家は舟形屋敷という洪水対策をした建て方をしています。カッパ館のすぐ側にもこの船形屋敷が残っています。


参考文献 「大富村史」 「和田浦なしの里焼津和田」など