2010年 9月 06日

大井川について2

 人が住み始めた後の大井川はどの時期までどこを流れていたのか、時期については結構不明で、異説が結構あります。
資料があったので載せてみます。これは国土交通省の資料です。


※gifイメージはサムネイル化できません大井川の流路

 ?流路のあとに残っているのが現在の黒石川です。?流路のあとに残っているのは現在の栃山川です。?流路は現在の大井川です。
 この資料だと大宝律令の時代には現在の位置に成ったと書いてあります。しかし、大井川は駿河国と遠州国の境の川だと考えられていました。?流路(栃山川)と?流路(大井川)の間の藤守は長い期間、大井川の西側をしめす遠州国だと分類されていました。この点から考えると、大宝律令の時には?流路(栃山川)が大井川と考えられたとするのが自然だと思います。
 また、律令時代の東海道は江戸時代の東海道より、海岸部を通っていて、焼津市の小川に宿がありました。(小川の名前の元になった川がおそらく現在の黒石川でしょう。)「しだのうらを あさこぐふねは よしなしに こぐらめかもよ よしこさるらめ」という歌が平安期の万葉集にあります。これは島田市初倉あたりから大井川の下流を小川宿まで船で渡った時作られたのではないかという説があります。(異説もあります。)
 いわば、大宝律令前から平安期までの間くらいまで栃山川が主たる大井川だったとする様々な説があるのです。季節や台風などによって雨量の差が激しく変化する上に、自然に任せて流れていたことを考えると、律令時代には実際どこに何時大量に水が流れてくるかはっきりとは分からないという状態だったのでしょう。さらに平安の海進期には藤枝の青島あたりまで、湾のように成っていたこともこともあるようで海との境目もだいぶあいまいだったのです。この為、黒石川と栃山川の間の地区は開発が遅れます。これに対して栃山川と大井川の間の藤守地区はとても安定していたようで歴史が極めて古く、弥生時代の土器も出土し、平安時代より遡って考えられる芸能も残っています。(藤守の田遊び 国指定重要無形民俗文化財)
 龍ちゃんの河童館は黒石川沿いの東側(焼津港より)の大住で、周辺に比べて比較的早く開発されたようで、歴史は鎌倉時代あたりまでさかのぼることが出来るようです。ところが、黒石川を隔ててすぐ反対側(栃山川側)は三右衛門新田に成るのですが、ここの地区の開発は江戸時代の中期から後期とぐっと新しくなります。いわば、黒石川と栃山川の間の地域は基本的に江戸時代の中期から後期に開発されるみたいです。例外は例えば禰宜島地区で、ここは室町後期にある程度開発されていたみたいです。禰宜島というように最後に島という名前が付く地名が志太平野には結構あるのですが、これはおそらく、平安時代の海進期に島のように成っていた微高地だったので比較的安定していたのでしょう。なお本中根も古く室町前期あたりまで歴史がさかのぼることが出来るようです。
 どちらにしても、川の跡地ですので、このあたりを開発した農民は大変な苦労をしたようです。石ころだらけで水はけが良すぎて「ザル田」と呼ばれていましたし、木も多数生える訳では無かったので、燃料として使う材木の調達もほとんど購入するしかなかったみたいです。粘土もありませんでした。まさしく水と石しか無い地域だったのです。江戸時代に入っても慶長年間と寛永年間にカッパ館付近も大洪水が起こっていますし、恐怖とも隣り合わせだったでしょう。この為、古い農家の家は舟形屋敷という洪水対策をした建て方をしています。カッパ館のすぐ側にもこの船形屋敷が残っています。


参考文献 「大富村史」 「和田浦なしの里焼津和田」など

 

投稿者: mako - 23:52 | カテゴリ: カッパヒストリー